うにを掴む

掴まない

21_21 DESIGN SIGHT「マル秘展」──オリンピック・エンブレムは燃えているか

新型コロナウイルスの影響で閉館を余儀なくされていた美術館やギャラリー施設だったが、今月に入ってちらほらと再開するところも増えてきた。そんななかで、6月1日より21_21 DESIGN SIGHTで開催されている『マル秘展 めったに見られないデザイナー達の原画』も事前予約の制限を設けた上で再開した。私がこの展示に足を運んだのはまだ1月のことだったが、たくさんの入場者でかなり会場はごった返していたので、この対応は無理もない。実際展覧会は盛況なようで、会期が今年9月にまで延長された。(入場制限を行った上でのこの延長は、予想来場数の多さを暗に示している)

出展者は日本デザインコミッティーのメンバー26人であり、展覧会企画はデザインエンジニアの田川欣哉氏である。企画内容は非常にシンプルで、各デザイナーの制作過程におけるラフ・スケッチ(”めったに見られないデザイナー達の原画“)を展示することによって、「日本の次世代にJAPAN DESIGNの遺伝子を伝え」、「次の世代の「つくる人たち」にインスピレーションの種をまく」ことなのだそうである。番組「デザインミュージアムをデザインする」の中でも田川氏はデザイナーの制作過程を残すことを非常に重視していることを語っていたが、この展示はそうした考えの実践といってよいだろう。そして取り急ぎ、この意見は正しい。特に大量生産物としての「もの」を収蔵する意義は──「デザイン」の性質からいっても──「作品単品」ではなく、ミュージアムであればその企図、背景資料などを含めて総合的に価値づけられるべきだからだ。

デザインの完成物と制作意図──この非常にありふれた二つの言葉から、しかし確実に私の中で連想されてくるのは2015年のオリンピック・エンブレム騒動である。今更詳しくは書かないが、ここで問題になったのもデザインのオリジナリティが表層(アピアランス)だけで「パクリ」と断定されてしまうこと、つまりそのバックグラウンドやコンセプトのオリジナリティ=制作意図があることを理解されないことにあった。このエンブレム問題は特にグラフィック・デザインの業界ではいまだに尾を引いていると感じさせられるし、まだ決して終わっていない問題でもある。この問題の根が深いのは、端的に一般人の無理解・無教養だけが原因なのではなく、ひいてはデザインというのは「そういうもの」であるという認識を戦後日本のデザイン界が温存し、これまで育ててきてしまったからに他ならない。一見してこの「マル秘展」は、このエンブレムをめぐる問題にもデザイナーの制作過程を見せるというアプローチによって明快に回答したかのように見える。しかし実際のところ、デザイナーの(なぜか大半が)手描きの原画を展示し、それを「マル秘展」と名付ける行為は、そもそもなぜそれがどうして「マル秘」としてブラックボックス扱いされるようになってしまったのかという大元の問いを看過・温存してしまっている。加えて、そうした問題意識が機能しないまま「マル秘」のものを「開帳」して一般に見せ(てあげ)る、という姿勢をとることは、ますます「クリエイティブ神話」──人とは一味違うセンスを持った人が考えていてなかなか常人には理解できないがそれがクリエイティブだ──を強化するだけなのではと疑ってしまう。

更に言えば、そもそも「原画」がどれほどデザイナーの「方法論・哲学・品質」を物語ってくれるのだろうか?無論、方法論という点で言えば、作業における意思決定プロセスの一端をそこに見ることができるかもしれない。けれども肝要なのは何をもとにそのアイデアがかたちとして描かれ、何をもとに取捨選択されたのかという、より根本的な考えの枠組みのほうではないか。あなたはどのような社会的関係を持ち、そのうちどのようなイメージや考えを引用しているか、何をアイデンティティとして選択しているか…各々の制作理念を知るには、究極的にはそうした点にまで遡り、語らなければ意味がない。「デザインはいろいろ考えられて作られていて、人によっていろいろなプロセスがあるんだなあ」では、結果的にその個人がなぜそのデザインをしたのかという意味が薄められ、ふんわりと「クリエイティブ神話」の供物に捧げられてしまう。

そういうマジメな展覧会はつまらない?その通り。お客さんもこんなには入らなかっただろう。全くその通り。けれども動員数や人気取りに終始した結果、ひたすら大衆迎合以外の路線がとれなくなった「デザイン」に未来はあるのだろうか。「マジメはつまらない」のではなく、もはやデザインはマジメで堅実にが「できなく」なってはいないか。

日本のデザインミュージアム構想③

前回から妙に枝葉末節にこだわりすぎているような気がしてきたこのブログだが、ここでようやくEテレ『デザインミュージアムをデザインする』(前半)を見た。

しょっぱなからまず嫌味を言いたいのが・笑、番組全体の「デザインってこういうもんでしょ」感あふれるビジュアルである。白地にゴシック体、それでなぜか字間は開きめでね。わかりますよ。「デザインあ」もそういう感じですものね。美大生もそういうこと、よくします。

デザイナーズマンション、デザイン家電…この世の人によって作られたものは多かれ少なかれ、そしてバッドだろうがグッドだろうが「デザイン」されたものであるはずなのに、実はそこには「デザインらしい」見た目のもの、という見えない基準線が存在する。そう、見た目の話──こういうとっかかりで話を始めると、いま、デザイン業界にいる人は肩をすくめるかもしれない。「デザインって見た目だけじゃないんだよ」と。

けれども、その論理には実は終わりがない。「デザインって見た目だけじゃない」、これは確かに当たっているかもしれないが、一方で使いづらく、機能も他に優れているものはいくつも見あたるが、見た目だけは良いもの──これはデザインではないのだろうか?もちろんそれもデザインである。「でもデザインって見た目のことでもある」これで議論が一巡した。結局これは循環し続けるだけの問答にすぎない。

私は当番組で取り上げられている、各ゲストと、彼らが選んだ「Design collection」は「「デザインらしい」見た目のもの、という見えない基準線」におもねったものに感じられた。同じ方向性を感じすぎてしまった、というふうに言い換えてもいい。だってゲストの人のオフィスや服装の雰囲気、本当に似過ぎていませんか・笑。いやこれは冗談だけれども、あながち論点としては外していないとも思う。つまりそれは各ゲストが悪いとかいうよりも、その人選に何か恣意的なものを感じてしまう、ということに尽きる。これは悪意ある目線だろうか。けれども、例えば亀倉雄策の対極には横尾忠則のような人もいたはずで、また、近代合理主義の対極には岡本太郎のような人もあったはずだ。(今やクール・ジャパンと桁上げされてしまったが)オタク文化、遡れば特撮文化、まんが文化の異形性は、その異形性にもかかわらず今や尽くせないほどの影響を現代の人間に与えてはいないか。そういう人たちの仕事、そういう事象がここではきれいに見過ごされてはいないだろうか。弥生的と縄文的という二分法を当てはめるとしたら、縄文的のほう、と言うべきか。そういうものは「デザインではないもの」として扱われているのでは?けれどもそれがデザインでない理由もどこにもないことにすぐ気づくはずだ。このような視座に立ったとき、おのずと「デザインミュージアムを〜」の世界観、デザイン観は相対化されて見えてくる。

デザインはシンプルで、わかりやすく、機能的で、整っていて、誰でも理解でき、美しく、使い勝手が良く、モノクロで、感じがよく、おもしろく、正直で、役に立ち、よくわかり、工夫が凝らされていて、ためになり…これらはすべてある種の神話であり、各々が政治的信条としてこうだと思うのはいいにしても、こうした面だけをとらえて「これがデザインだ」という考えを地固めしてしまうことは「「デザインらしい」見た目のもの、という見えない基準線」を何となく踏襲し、強化してしまうおこないに他ならない。デザインミュージアムをデザインする、の人選には、常にそうした偏りを感じる。けれども、自身の了見を常に相対化し続けることがたとえ議論としてまとまりを欠いたとしても、多様性ある豊かさにつながってゆくのではないか。そうして見回してみたとき、自分が中立的で、普通で、フラットだと思っていた表現手法ですら結局は「モード」の一傾向──偏ったものの見方に過ぎないことが見えてくる。何となく白地にゴシック体、それでなぜか字間は開きめのタイポグラフィーでやってる人。あなたのことですけど。

日本のデザインミュージアム構想③

前回の更新から少しだけ間隔が空いてしまったのは、本題からかなり逸れる面倒な話をすべきかどうか悩んだからだった。が、ここ最近ミュゼオロジーについての本が立て続けに出版されたことを受け、*1やはり触れておくべきだろうと思った。

前回、ミュージアムという「収蔵施設」──ひいては研究機関についての認識と、市井の人々、そしてデザイナーとの感覚のずれについて語った。ではなぜそうしたずれが生じるのか。私はミュージアムイコール収蔵施設だと断定したけれども、おそらく一般的な認識はそうではない。例えば日本各地になんとかミュージアム、という名前の施設は無数にあるが、ときにそれはテーマパーク的なものだったりして、全てが必ずしも厳密な意味での「ミュージアム」であるわけではないことは周知の通りだろう。

日本では公立の施設はたいてい〜美術館、〜博物館、という名前がつけられていて、現状「ミュージアム」の名を冠したものはない。(もちろん英文表記に”museum”が含まれる場合はある。)原語、「museum」という言葉自体には本来、美術館、博物館といったジャンルの区別はないわけだが、訳語として定着してしまったことからよく言えば分担、悪く言えば無意味な分裂が生じてしまったように思える。つまり「「美術」というのは博物以外のものを扱う、「博物」というのは美術じゃないものを扱う、といったよう」な「二分法」のようなかたちで。*2「デザイン美術館」、「デザイン博物館」ではなく、あくまでも「デザインミュージアム」という名前が求められているのは、デザインという分野が美術と博物、技術と芸術をたがいに架け橋する存在だからに他ならない。どちらか片方の制度だけでは十分にその概念を包摂できないのだ。

けれども、現状このような関係性が共有されていないどころか、「美術館」と「博物館」、そしてカタカナの「ミュージアム」というのは、それぞれ全く異なったものとして考えられている節がないか。なんとかミュージアム、という名前の施設になんとか美術館だとか、なんとか博物館ではなく「ミュージアム」という言葉があてがわれているのは、決してゆえなきことではないと思う。デザインミュージアムの場合「ミュージアム」としたことは一方で博物館と美術館という「二分法」の再統合という思惑があったのかもしれないが、他方で美術館や博物館といったある種古くさい雰囲気がまとわりついた空間ではなく、妙な”しがらみ”なしの第三の領域としての「ミュージアム」が想定されてはいないか。これはあくまで空想の域を出ないが、デザイナーたちが示すミュージアムの企画や、その方向性を見ているとそんな思いが頭をよぎる。

デザインミュージアムをめぐる会議では、いろいろなアイデアが飛び交った。新しいミュージアム像、定義、枠組み、考え方…どれも必要な思考ではあるが、新しい概念や言葉の創出にいそしむより前に、既存の言葉や制度の意味をなぞりなおし、その意味のすりあわせから地道にはじめるべきではないか。*3

 

現実的な案として。それではデザインミュージアムを成立させるためにはどうすればいいのだろうか。前回紹介した「メガ・ミュージアム」たちは華々しい。けれども例えば災害が頻発する日本という土地に限っては、そうした巨大施設をドドンと1つ建設することが果たして良い判断なのかどうかは一考の余地があるだろう。例えば、前回も少し例に挙げた川崎市市民ミュージアムは2019年の豪雨によって地下の収蔵庫が浸水し、コレクションに甚大な被害を受けた。今後も様々な災害によって、なんらかの形で収蔵品が被災することは十分考えられるし、そうした際に全ての収蔵品を一箇所にまとめおくのはリスクが高いとも考えられる。また、予算的な面においても巨大な施設の建設には大量の工費がかかることは明らかである。こうした状況で、美術館を成立させるには、例えば小さな施設を日本各地に建設し、ばらばらに置く、という構想がある。こうしておけば作品の輸送費は都度かかるが、収蔵品のどれもが一斉に被害をこうむるということはないわけだし、消失のリスクは少なく抑えられる。また、更に前段階として、個人のアーカイヴ、各地のミュージアム施設がすでに所有しているコレクションなどをネットワーク的に共有するという案もある。(各施設ごとにデータベースを公開している場合はあれど、それら全てを包括的にデータベース化したものは現状存在しないので。)個人的にはこうした草の根的なネットワークを充実させてゆくことが現実的な案だと思う。一方で、この案では展示、教育といった段階まで進めることが難しそうなのがネックと言えそうだが、こうしたインフラが確保されることによって一般の美術館・博物館施設の研究者がアクセスしやすくなるとすれば、そこに希望を懸けてもよいのかもしれない。

こうした動きは民間団体や、各大学施設などで着々と進みつつある印象だが、そもそもデザイン専門の研究者が乏しいこと、また大学にもデザイン史などに相当する科目やコースが少ないことから、残念ながら急速にも進まないだろう。

*1:『ラディカル・ミュゼオロジー』クレア・ビショップ、月曜社 『美術展の不都合な真実古賀太、新潮社

*2:保坂健二郎発言 https://note.com/designmuseum/n/n96ae32513b62

*3:いわゆる近年の「クリエイティブ」な世界には、言葉の意味をすり替えたり、表面的な言葉だけを取り替えることによって新たな価値が生まれたかのように偽装する術が蔓延していると思う。

日本のデザインミュージアム構想②

前回では全く触れなかったが、そもそもデザイン・ミュージアムという言葉に馴染みがなく、それが一体どういうものなのか想像することが難しい、というひとも中にはいるだろう。そこで、ここでは簡単にデザイン・ミュージアムという機関の出自や機能を二つのミュージアムを例に紹介してみたい。

まず、世界最初のデザイン・ミュージアムと言われるロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)である。1851年のロンドン万博で収集された物品をベースに、当初は産業美術館(museum of manufactures)としてマールボロ・ハウスにつくられ、1857年に装飾美術館(museum of ornamental art)としてサウス・ケンジントンに移り名前もサウス・ケンジントン美術館に改称、さらに1899年に現在のV&Aという名前に改称され、1909年に現在の場所に移転した。

名称からもわかるように、当初はもっぱらインダストリアル・デザイン、あるいは工芸品や宝飾品といったコレクションが中心だった。また、そうした貴重な物品の収集・保存はもちろん、デザイン・スクール(のちのロイヤル・カレッジ・オブ・アート)を併設させることによって学生や、労働者へデザインについての啓蒙の役割を果たしてきた。こうした活動はいわば国策の延長として位置づけられる。ロンドン博を経てイギリスは、自国の産業がいかに優れているかを誇示できた反面、製品自体の「ダサさ」を痛感することになった。ロンドン博以前の1830年からデザイン教育は国家主導で行われていたのにもかかわらず、である。当時、製品のデザインがいかに良いか、ということは貿易競争の中で死活問題であり、美しいデザインの効果的な啓蒙活動と教育は「必要」に迫られた急務だったのである。

現在では伝統的なインダストリアル・デザインに限らず幅広い分野で収集活動を行っており、ペラのパンフレットから巨大建築物まで、幅広くカヴァーしている。収蔵品数は230万を超え、まさにメガ・ミュージアムである。

V&Aのこうした活動に触発され、以後こうしたコンセプトを同じにするミュージアムの建設が進んだ。たとえば、年代的に近いところでは1864年オーストリアオーストリア美術工芸館が設立される。また、1862年にはルドルフ・フォン・アイテンベルガーがサウス・ケンジントン美術館と付属するデザイン・スクールを見学したことをきっかけに1876年、オーストリア美術工芸館が工芸学校を設立した。日本にも国立近代美術館の工芸館というのがあるが、そうした施設を今日でいうデザイン・ミュージアムの親として考えることもできる。

ところで、V&Aの国内の知名度がいかほどかよくわからないが、最近では「KIMONO」展などが開かれた(延期されているが)ことから、日本でも少し話題になったような気がする。

もうひとつ、重要なミュージアムについて触れなくてはいけない。ニューヨーク近代美術館──MoMAである。

あまりにも有名なので詳細な説明は省くが、1929年、リリー・P・ブリス、メリー・サリヴァン、アヴィ・ロックフェラーの三人のプライヴェート・コレクションをベースに立ち上がったMoMAがその名の通りmodern artのミュージアムであるにもかかわらず、非常に早い時期から、デザインや建築といった分野の収集活動をも盛んに行なっていることはよく知られている。MoMAが運営するセレクト・ショップ「MoMA Design Store」をはじめ、例えば榮久庵憲司によるキッコーマンの醤油さしやdocomoが開発した「絵文字」がコレクションに加えられていることなどから、日本人の生活単位でもなにかと馴染みがあるといえるかもしれない。

そもそも、どうしてMoMAがモダン・アートの枠を超えて、非常に手広い分野で収集活動をするようになったか。それは同じニューヨーク市内に存在するメトロポリタン美術館との関係に由来する。メトロポリタン美術館の収蔵品が古今東西、非常に網羅的なのに対して、MoMAは収集を近現代の作品に限るかわりに、広い分野の作品をその対象とすることで両者の差別化を図ったのだ。

V&Aなどの古いデザイン・ミュージアムが産業美術館、装飾美術館といった前身をもつ一方で、20世紀に入って設立されたMoMAは当初から「デザイン」を名乗り、モダン・デザインを対象に精力的な展開を続けてきた。近いところではゲームのマインクラフトやグーグル・マップのピンのデザインを収蔵するなど、非常に先駆的な試みも見られるし、そういう意味では今やオピニオン・リーダー的存在だともいえるだろう。個人的に驚いたのは「書体」が収蔵品に含まれていたことで、この理解度の深さについては例えば日本の状況を見ると遠く及ばない…と言わざるを得ない。

余談だが、前述したとおり、MoMAは自身でセレクト・ショップを運営していることもあって、収蔵品を単なる収蔵品で終わらせない一面もある。例えば1950年にはインダストリアルデザイン部門のディレクター、エドガー・カウフマン・ジュニアによって〈グッド・デザイン・プログラム〉がつくられている。美術館とシカゴの卸売市場の共同で進められたこの企画では、美術館がセレクトした「グッド・デザイン」な品物を実際にシカゴのマーケットに展示し、良いデザインの啓蒙とともに、それを実際買ってもらおう、という思惑も兼ねたものだった。もっとも、結局そのような形での企画は数回で終わってしまったのだが、デザインを単なる収蔵品=死蔵品と考えずに、商品の「流通」という世界の中に自ら飛び込んでみようとする姿勢は、今の活動にも通じているし、ミュージアムとしては非常に挑戦的な試みだ。

 

この二つのミュージアムの紹介から、非常にざっくりと、現状デザイン・ミュージアムというものが元々装飾美術館や産業美術館と呼ばれていたものが時代を経るにつれてデザイン・ミュージアムと呼ばれているタイプと、20世紀以降につくられたもので、当初から「デザイン」という分野として扱っているタイプがあることがわかる。さらに後者の場合、デザインのみを扱うミュージアムである場合と、メガ・ミュージアムの中の「デザイン」という一部門である場合がある。例えば最近できた香港のM+といったミュージアムもこうしたタイプだ。

 

では、対して日本の状況を省みてみよう。実は、日本にもデザイン・ミュージアムに準ずる施設が皆無なわけではない。

例えば、前述した国立近代美術館の工芸館。宇都宮美術館、川崎市市民ミュージアム(水没したが)、富山県美術館や新潟県立美術館ではデザイン系の展示などが盛んだし、武蔵野美術大学美術館など大学付属の美術館も貴重なコレクションを擁している。また、企業が運営する私立ミュージアムも見逃せない。21_21 design sightや東京ミッドタウンデザインハブ、ギンザ・グラフィック・ギャラリー、クリエイションギャラリーG8…といったギャラリー施設も都内にいくつも存在する。ではどうしてそれらがデザイン・ミュージアムに「準ずる」施設でしかないのか。それはやはり、いずれもデザイン・ミュージアムと名乗れるほどにはコレクションが充実していないからであり、規模も小さいからだろう。例えば工芸館などは確かにコレクションの数こそ豊富だが、その収集対象は「デザイン」という大系を示すにはあまりにも限られすぎているのである。また、誤解されがちなのだが、ミュージアムという施設が本来的には収集、保存を第一義に考える施設だということを忘れてはならない。普段われわれが目にする「展示」というのはその大前提がうまく行われたうえでの第二義にあたる活動であって、その点がいわゆる「ギャラリー」などの機能とは根本的に異なる。

 

ところで、前回書いた「偏った議論」というのの一つがまさにこの点にある。つまり、議論が例えば「どう展示するか」といったデザイナー的(?)面に集中していて、ミュージアムにおける「文化財」に対する人文学的な見地みたいなものが疎かにされているように思えてならないのである。揚げ足をとるわけではないが、その証左と言えるような一文が、「Design DESIGN MUSEUM」が残しているシンポジウムの記録に見られる。

note.com

私がことさら気になっているのは

・デザイン史やアカデミックにも展開することも含めアクションをしていく。

この一文である。

この文は「日本にデザインミュージアムを作ろう準備室vol.1」に出た論題の「まとめ」として書かれたものだ。私が違和感を覚えたのは、つまりちゃんとしたミュージアムであれば「デザイン史やアカデミックにも展開することも含めアクションをしていく。」というのは自明のことだろう、という思いがあったからである。逆に言えば、話し合っている彼らはそのことを自明だと思っていない。

「デザインミュージアムをデザインする」──この言葉は「言葉や制度の意味を恣意的に解釈変更してみよう」の言い換えになってはいないか?そう邪推してしまうのである。

 

最後になって勢い余って話がすごくずれてしまったが、この問題についてはのちにもう一度触れることになるはずだ。(つづく)

 

参考文献

「モダン・デザイン全史」海野弘、美術出版社、2002年

「世界のデザインミュージアム暮沢剛巳、大和書房、2014年

日本のデザインミュージアム構想…備忘録①

 今月号のAXIS(No.205 2020年6月号)がデザイン・ミュージアム特集だったので、このことについて書く。

そもそも日本での具体的なデザイン・ミュージアム設立構想の嚆矢となった出来事は大きく二つあり、これは様々なところで言及されていることだが、第一に2004年に提出された『東京デザインミュージアム構想』。そして2012年に三宅一生青柳正規が発起人となって『国立デザイン美術館をつくる会』を設立したことだ。もっとも、言及だけでいえば三宅はさらに以前の2003年時点で朝日新聞に「つくろうデザインミュージアム」という趣旨のエッセーを寄稿している。以来、ミュージアムの設立は国内でもゆっくりと進んできた議論であった。

近年のNHK Eテレの番組「デザインあ」の人気や、21_21 DESIGN SIGHTの商業的成功を見れば、こうしたデザインミュージアム設立の素地はすでに十分に固まっているように見えるかもしれない。けれども一方で、オリンピック・エンブレムをめぐる一連の問題や、その後もたびたび紛糾する「パクり」論争など、デザインにまつわる理解が深まっているとは言い難い部分も社会には多分に残されている。(デザインについての論争が生まれることはもちろん悪いことではない。問題は議論が議論として蓄積されていかず、なんとなく忘れられてしまい、同じ問題がひたすら堂々巡りする悪い構図が生まれてしまうことにある。)

少し話が脱線する。比較対象としてふさわしいのかどうかはわからないが、例えば昨年話題になったあいちトリエンナーレ「表現の不自由展」の一時閉鎖は、一般市民からの抗議、ひいては誹謗中傷が相次いだことにより発生した。佐野によるエンブレム・デザインのパクり疑惑→自主取り下げもそうした点では似たケースだと思えるのだが、JAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)をはじめとする団体のいずれも何の声明も出さず、また多くのデザイナーはこれに対して沈黙を貫いた。一方あいトリの場合、アーティストや様々な連盟が抗議の声や声明を出し、実際展示も最終的には再開された。この二つのケースを並べて見てみて、この両者のちがいは何だろう、と思わずにはいられない。無論、あいトリにおける各アーティストの行動の可否については批判点もあろう。ここでそうした議論に深入りすることはしないが、少なくとも、自発的に議論の場を設け、また起こりうる同様の事態に備えて「あいちプロトコル」のような具体的な文章が自発的に示されたことは、あの限られた状況で有意義な対応だったと言えるはずだ。再び同じような問題が発生したとき、必ず今回のケースは参照されるのだから、歴史的な足がかりをきちんと残したとも言える。しかし、エンブレム問題については前述したとおり、結局議論が流れてしまった形になる。結果、あれはパクリだ、パクリでない、といった非常に表面的な議論が代わり映えもなく今日に至るまで繰り返される状況にある。(こうした問題提起については、JAGDAが今年(2020年)に入って新しく解説したサイトGraphic Design Reviewのなかの室賀清徳による「創立の言葉」にも記されており、非常に的確である。)

端的に言って、日本のデザイン界は──私がグラフィックデザイン領域を専門にしていることから、偏った見識であれば申し訳ないのだが──話し合い、評価し、考え、コミュニケーションするための「言葉」を積み上げる作業をほとんどしてこなかった。もっと正確にいえば、いつしかしなくなってしまった。デザインと名のついたビジネス書や技法書は充実しているかもしれない。けれども特にこうした「揉め事」に関して、メソッドやスキルを超えた倫理や理念の問題に関して、市民に議論の場を開くことや、独自の意見、見識をもつ努力をあまりに欠いてきた感がある。実際、そのしわ寄せのような形で事件が起こり、そうやって何か問題が起きたときには一様に無視する態度で応じた。

横道に逸れ過ぎてしまったが、日本にデザイン・ミュージアムを設立するということは、こうした状況を改めて見据えなければならないということであると思う。それはデザインの評価・歴史・意義・言論──を再考することに他ならない。

ところで、現状、日本でのデザイン・ミュージアム設立を目す団体はいくつかに限られている。その中で、三宅・青柳による提言を背景に発足したのが「Design-DESIGN MUSEUM」であり、近年ではシンポジウムを開催するなど、最も目立った活動をしていると言えるだろう。組織名は「デザインミュージアムをデザインする」と訳せるわけだが、同名の番組を2020年、NHK Eテレで放送した。(代表理事 倉森京子はNHKのディレクターである。)

改めて確認しておくが、私自身はデザインミュージアムの設立はぜひしてほしいと思っている。しかし、現状「Design-DESIGN MUSEUM」で行われている議論は、少し偏った議論になっているのではと感じてもいる。そこで、そもそもの「デザイン・ミュージアム」の歴史とはどんなものなのか?デザインを展示することの意義とは?などなど、私なりに思っていることをここにつらつらと書いていこうと思い立った。(つづく)

佐藤可士和は罠を仕掛けている

1.

少し前の話になるが、佐藤可士和が「くら寿司」のリブランディングを行ったというニュースを見た。

リニューアルされたロゴ・マークはひげ文字風の文字で大きく「くら」、その下に欧文で「KURA」と書かれているもので、その前のロゴが「無添 くら寿司」と少し平体がかった素っ気ないゴシック体だったことを思えば、意匠的には非常に進歩したと思える出来だったと思う。

私の観測範囲では、このリニューアルについては賛否両論の意見が見られた。否の意見をいくつか選んで紹介すると、

①「寿司」の文字がないことによって、特に外国人に向けてはどういう店なのかわかりづらいのではないか、という意見。くら寿司自体がグローバル進出を臨むにあたってのリブランディングだったこともあり、逆効果ではないかという見方だろう。

②内装について。各テーブルに置いてあるはずの醤油さしが、机に秘密の扉のように仕込まれた収納にしまわれていて、率直に使いづらそうという意見。そして、

③ロゴの出来栄えについて。ひらがなの「くら」の文字とアルファベットの「KURA」の文字列のセンタリングがずれて見える、という視覚調整的な面での意見。

などがあった。

一応断っておくと、これらの意見は今私が恣意的に抽出しただけなので、代表的な意見であるというわけではない。というかそもそも、内装がどう変わろうがロゴがどう変わろうが、正直くら寿司自体にあまり関心がない。使いやすくなろうが見つけやすくなろうが逆効果で潰れようが、極端な話どうでもいいのであるが。

けれども、特に③のいかにもデザイナーの指摘という感じがする意見──これに関して、色々と鼻持ちならないものを感じたので、今回はそのことについて書く。(デザイナーのこういう「細かいところ見てますマウント」みたいなものが、結構嫌いである。)

2.

このことについて呟いたツイートは恐らくしばらくは現存するので、気になった人は見てみてもいいと思う。

そして、実は私は彼の「間違い」を指摘するつもりは一切ない。というか、彼の言うことは正しい。確かにこのロゴは少しセンタリングがずれて見えるし、カーニングも少しおかしい気がする。そういう意味では視覚調整的にはもっと仕事できる部分があったかもしれない。

しかしそんな風に目を尖らせてみたところで、ある疑問が浮上する。「佐藤可士和がそんなことに気付いてないと思うか?」

3.

断言してもいいが、佐藤はそうした調整が視覚的な違和感をなくすために必要なことくらい絶対に知っている。例え広告代理店あがりで(偏見ですね)多少胡散臭かったとしても(悪口ですね)、彼がプロフェッショナルのトップ・デザイナーであることは疑いようのない事実だし、たとえ佐藤自身がそうした調整の技術に熟練の腕がなかったとしても、いくらでも調整する方法はあったはずだ。

彼が視覚調整を無視した例は他にもある。たとえばユニクロブランディングがそうだった。

注目すべきは、彼が設計した欧文のコーポレート・フォントである。佐藤の事務所、samuraiのウェブサイトに画像が掲載されている。

kashiwasato.com

 

このフォントは一見DIN系の書体のように見えるがそうではなく、オリジナル・フォントである。フォーマットのようなものを作って、そこにかたちを当てはめて各グリフを作っているようだ。

ご存知の方は言わずもがなだが、実際の書体制作のセオリーからすれば、これはちょっとあり得ないことである。書体制作の基本中の基本であるが、たとえばOなどのシルエットが丸い文字の天地をA,Bといった他の文字の天地と同じラインに設定してしまうと、相対的にOが小さく見えてしまう。だから、一部のグリフは少しだけ天地をはみ出させ(オーバーシュート)、サイズがばらついて見えるのを防ぐのである。先ほど触れた視覚調整の一例だ。また、他にも機械的な角丸は若干カクついて見えるため、それを視覚的に補正するなどの作業もある。

いっぽう佐藤の作り方はフォーマットにはめこむだけだから非常に機械的で、そうした細かい調整などには目もくれない。少し注意して見ればわかるが、メインの「UNIQLO」のロゴでさえもQやOなどが他の文字と比べて少し小ぶりに見えるのだ。良識あるデザイナーとしては、これは非常に大きなミスに思えるかもしれない。

4.

けれども、いったい誰がそんなことを気にするのだろうか?

確かに気にしてみれば、視覚的には気持ち悪いかもしれない。けれども、多くの消費者にとってそれはさほど大きな問題ではない。いや、些末な問題ですらない。気付いていない人の方が大多数だろう。仮に気付いたとしても、だから何だと言うのだろう?デザイナーのこだわりや大事にしてきたものが毀損されている気がする?その通り。玄人目には見るに耐えない?そうかもしれない。けれども、多くの消費者はそんなこと気にしない。

この構図は何かに似ている。そう、当のユニクロと消費者の構図である。

ユニクロの服は安い。そして、にも関わらず普通に着れる。ファッションにうるさい人から見れば、それは縫製にも型取りにも大して何のこだわりもない、ダサい服かもしれない。けれども、多くの人にとってはそんなことはどうだっていいのだ。普通に着ることができれば。仮にたまたま普通の消費者が何か粗に気付いたとしても、「まあ、ユニクロだからな」ということでおさまるのである。このように見れば、佐藤のブランディング計画は、ユニクロという企業の特性を非常に批評的なやりかたで切り取っていると言えはしないか。

一見、この仕事はユニクロの価値を貶めているように感じられるかも知れない。 けれども、世間に本質以上に華美に、さも美しく、品質のいいものであるように見せるブランディングという名の「詐術」があふれる中で、そのどれが、これほど「誠実」だと言えようか。

5.

くら寿司の話に戻れば、まあこれも同じ話である。「寿司」を入れなかったことがマーケティング的にどういう影響を及ぼすのかはわからないし、あるいは改悪だったかもしれない。けれども、「くら寿司」という典型的なチェーン店に佐藤が仕事で関わった、と来れば、その純粋なデザイン面だけ見てそうした「デザイナー的目線」でツッコミを入れることは残念ながら「思う壷」なのである。もちろん、視覚的に美麗ではない、といくら言い続けても構わない。しかしそれはわざわざ回転寿司にやって来て散々味に文句をつける「はた迷惑な客」の姿と重なっている。(冷たい視線に晒されることになるだろう。)「あなたはたいへん舌が肥えてらっしゃるようですから、もっと高級なお店に行かれてはいかがですか」というわけだ。皮肉である。よくできていると思う。

シックス・センスとアーサー王伝説

シックス・センス》(1999)を見ました。

作品の性質上、話の筋に言及するのはどんな場合であれ憚られるので、一点だけ感想を。(とはいえ、未見の人はこれ以上読まない方がいいと思いますが。)

 

劇中に、少年コールが通う小学校で演劇の発表がある様子が描かれます。演目は《アーサー王伝説》。しかし、なぜアーサー王伝説なのか。

このシーンの意味を改めて考えてみます。劇中のラストに近いほうのシーンに限って言えば、まずみんなから変人扱いされてきたコールくんが主役=アーサーを演じる立場にあることから、ようやくクラスの中に居場所を得たことの証しとして描かれているということは言えるはずです。たとえその立場が現時点では先生にフックアップしてもらった仮初めのものだったとしても、今後、次第に彼がクラスの一員として馴染んでいくハッピー・エンドの予感のようなものを感じさせる象徴的なシーンです。また、彼が苦手としていたクラスメイトの子役もやっている男子生徒が脇役に格下げされてしまっているのは痛快というか、ちょっとしたユーモアでもあります。

 

けれども、これだけの内容を描きたいのなら、なにも演目はアーサー王伝説でなくても良かったはずです。逆に言えば、別にそれがアーサー王伝説であっても勿論いいわけですが、これほど強調して描かれているからには、何か絶対にアーサー王伝説でなくてはいけなかった、象徴的な意味が隠されているのではないか。そう仮定してみます。

 

アーサー王の「岩から剣を抜く」エピソードというのは、ものすごくざっくりと書くと、その行為に成功したことによって、青年アーサーの「王の資格」が認められる、というお話です。この場合の王の資格というのはその人自身の実際的な資質というより、血筋を指しています。

同じような構造をもった有名なお話として、《シンデレラ》のガラスの靴のエピソードが挙げられますね。誰も履くことのできなかったガラスの靴をシンデレラだけは履くことができた。そのことによって、その人が舞踏会で出会った運命のひとであることが証明されるのです。

注意しておかなければならないのは、ここでは、剣を抜くことができた人が王になる資格をもっているわけでも、ガラスの靴を履くことのできた女性が王子と結婚する資格をもっているわけでもないことです。そうではなくて、王の血筋を受け継いでいる人だけが剣を抜くことができる。王子と結婚する資格をもっている人だけが、ガラスの靴を履くことができるのです。

一見この二つは同じように思えるかもしれませんが、実は全く違います。つまり、「資格」自体はその時突然に与えられるわけではなく、既にその人が「固有のもの」としてもっているものであり、しかも他人には替えがたいものです。更に、それは努力や成長によって事後的に得られるものでもあり得ません。当人たちにとっては、血筋や足の形というのは不可避的なものであり、場合によっては「呪い」にすら近いのです。

けれども、逆に言えば「剣を抜く」ことで得られる祝福や承認はそれほど根本的な意味での、その人の存在の肯定にもなりえます。(さらに、これをアイデンティティの確立といった発達上の出来事に重ねて見るのは大袈裟すぎるでしょう。)

すごい勢いで書いてしまいますが、絞り込めば、「選ばれし者の祝福」──これが、「剣を抜く」エピソードに託されたテーマだと言えるでしょう。

 

シックス・センス》に読み替えれば、「剣を抜く」シーンのテーマ性がコールに重ね合わされていることがわかります。『死者が見える』という天与の異能力に自身が苦しめられるばかりだった少年は、その能力のつかいみちを覚えることで、ひとまず心の安定を取り戻します。ゴーストと会話することも今となってはありふれた出来事のようです。また、演劇が終わったあと、彼はついに母親に秘密にしてきた自身の能力について打ち明け、母親はそれを受け止めます。このようにして、「選ばれしもの」である彼と彼の能力は「祝福」され、自他共に承認されるのです。