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日本のデザインミュージアム構想②

前回では全く触れなかったが、そもそもデザイン・ミュージアムという言葉に馴染みがなく、それが一体どういうものなのか想像することが難しい、というひとも中にはいるだろう。そこで、ここでは簡単にデザイン・ミュージアムという機関の出自や機能を二つのミュージアムを例に紹介してみたい。

まず、世界最初のデザイン・ミュージアムと言われるロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)である。1851年のロンドン万博で収集された物品をベースに、当初は産業美術館(museum of manufactures)としてマールボロ・ハウスにつくられ、1857年に装飾美術館(museum of ornamental art)としてサウス・ケンジントンに移り名前もサウス・ケンジントン美術館に改称、さらに1899年に現在のV&Aという名前に改称され、1909年に現在の場所に移転した。

名称からもわかるように、当初はもっぱらインダストリアル・デザイン、あるいは工芸品や宝飾品といったコレクションが中心だった。また、そうした貴重な物品の収集・保存はもちろん、デザイン・スクール(のちのロイヤル・カレッジ・オブ・アート)を併設させることによって学生や、労働者へデザインについての啓蒙の役割を果たしてきた。こうした活動はいわば国策の延長として位置づけられる。ロンドン博を経てイギリスは、自国の産業がいかに優れているかを誇示できた反面、製品自体の「ダサさ」を痛感することになった。ロンドン博以前の1830年からデザイン教育は国家主導で行われていたのにもかかわらず、である。当時、製品のデザインがいかに良いか、ということは貿易競争の中で死活問題であり、美しいデザインの効果的な啓蒙活動と教育は「必要」に迫られた急務だったのである。

現在では伝統的なインダストリアル・デザインに限らず幅広い分野で収集活動を行っており、ペラのパンフレットから巨大建築物まで、幅広くカヴァーしている。収蔵品数は230万を超え、まさにメガ・ミュージアムである。

V&Aのこうした活動に触発され、以後こうしたコンセプトを同じにするミュージアムの建設が進んだ。たとえば、年代的に近いところでは1864年オーストリアオーストリア美術工芸館が設立される。また、1862年にはルドルフ・フォン・アイテンベルガーがサウス・ケンジントン美術館と付属するデザイン・スクールを見学したことをきっかけに1876年、オーストリア美術工芸館が工芸学校を設立した。日本にも国立近代美術館の工芸館というのがあるが、そうした施設を今日でいうデザイン・ミュージアムの親として考えることもできる。

ところで、V&Aの国内の知名度がいかほどかよくわからないが、最近では「KIMONO」展などが開かれた(延期されているが)ことから、日本でも少し話題になったような気がする。

もうひとつ、重要なミュージアムについて触れなくてはいけない。ニューヨーク近代美術館──MoMAである。

あまりにも有名なので詳細な説明は省くが、1929年、リリー・P・ブリス、メリー・サリヴァン、アヴィ・ロックフェラーの三人のプライヴェート・コレクションをベースに立ち上がったMoMAがその名の通りmodern artのミュージアムであるにもかかわらず、非常に早い時期から、デザインや建築といった分野の収集活動をも盛んに行なっていることはよく知られている。MoMAが運営するセレクト・ショップ「MoMA Design Store」をはじめ、例えば榮久庵憲司によるキッコーマンの醤油さしやdocomoが開発した「絵文字」がコレクションに加えられていることなどから、日本人の生活単位でもなにかと馴染みがあるといえるかもしれない。

そもそも、どうしてMoMAがモダン・アートの枠を超えて、非常に手広い分野で収集活動をするようになったか。それは同じニューヨーク市内に存在するメトロポリタン美術館との関係に由来する。メトロポリタン美術館の収蔵品が古今東西、非常に網羅的なのに対して、MoMAは収集を近現代の作品に限るかわりに、広い分野の作品をその対象とすることで両者の差別化を図ったのだ。

V&Aなどの古いデザイン・ミュージアムが産業美術館、装飾美術館といった前身をもつ一方で、20世紀に入って設立されたMoMAは当初から「デザイン」を名乗り、モダン・デザインを対象に精力的な展開を続けてきた。近いところではゲームのマインクラフトやグーグル・マップのピンのデザインを収蔵するなど、非常に先駆的な試みも見られるし、そういう意味では今やオピニオン・リーダー的存在だともいえるだろう。個人的に驚いたのは「書体」が収蔵品に含まれていたことで、この理解度の深さについては例えば日本の状況を見ると遠く及ばない…と言わざるを得ない。

余談だが、前述したとおり、MoMAは自身でセレクト・ショップを運営していることもあって、収蔵品を単なる収蔵品で終わらせない一面もある。例えば1950年にはインダストリアルデザイン部門のディレクター、エドガー・カウフマン・ジュニアによって〈グッド・デザイン・プログラム〉がつくられている。美術館とシカゴの卸売市場の共同で進められたこの企画では、美術館がセレクトした「グッド・デザイン」な品物を実際にシカゴのマーケットに展示し、良いデザインの啓蒙とともに、それを実際買ってもらおう、という思惑も兼ねたものだった。もっとも、結局そのような形での企画は数回で終わってしまったのだが、デザインを単なる収蔵品=死蔵品と考えずに、商品の「流通」という世界の中に自ら飛び込んでみようとする姿勢は、今の活動にも通じているし、ミュージアムとしては非常に挑戦的な試みだ。

 

この二つのミュージアムの紹介から、非常にざっくりと、現状デザイン・ミュージアムというものが元々装飾美術館や産業美術館と呼ばれていたものが時代を経るにつれてデザイン・ミュージアムと呼ばれているタイプと、20世紀以降につくられたもので、当初から「デザイン」という分野として扱っているタイプがあることがわかる。さらに後者の場合、デザインのみを扱うミュージアムである場合と、メガ・ミュージアムの中の「デザイン」という一部門である場合がある。例えば最近できた香港のM+といったミュージアムもこうしたタイプだ。

 

では、対して日本の状況を省みてみよう。実は、日本にもデザイン・ミュージアムに準ずる施設が皆無なわけではない。

例えば、前述した国立近代美術館の工芸館。宇都宮美術館、川崎市市民ミュージアム(水没したが)、富山県美術館や新潟県立美術館ではデザイン系の展示などが盛んだし、武蔵野美術大学美術館など大学付属の美術館も貴重なコレクションを擁している。また、企業が運営する私立ミュージアムも見逃せない。21_21 design sightや東京ミッドタウンデザインハブ、ギンザ・グラフィック・ギャラリー、クリエイションギャラリーG8…といったギャラリー施設も都内にいくつも存在する。ではどうしてそれらがデザイン・ミュージアムに「準ずる」施設でしかないのか。それはやはり、いずれもデザイン・ミュージアムと名乗れるほどにはコレクションが充実していないからであり、規模も小さいからだろう。例えば工芸館などは確かにコレクションの数こそ豊富だが、その収集対象は「デザイン」という大系を示すにはあまりにも限られすぎているのである。また、誤解されがちなのだが、ミュージアムという施設が本来的には収集、保存を第一義に考える施設だということを忘れてはならない。普段われわれが目にする「展示」というのはその大前提がうまく行われたうえでの第二義にあたる活動であって、その点がいわゆる「ギャラリー」などの機能とは根本的に異なる。

 

ところで、前回書いた「偏った議論」というのの一つがまさにこの点にある。つまり、議論が例えば「どう展示するか」といったデザイナー的(?)面に集中していて、ミュージアムにおける「文化財」に対する人文学的な見地みたいなものが疎かにされているように思えてならないのである。揚げ足をとるわけではないが、その証左と言えるような一文が、「Design DESIGN MUSEUM」が残しているシンポジウムの記録に見られる。

note.com

私がことさら気になっているのは

・デザイン史やアカデミックにも展開することも含めアクションをしていく。

この一文である。

この文は「日本にデザインミュージアムを作ろう準備室vol.1」に出た論題の「まとめ」として書かれたものだ。私が違和感を覚えたのは、つまりちゃんとしたミュージアムであれば「デザイン史やアカデミックにも展開することも含めアクションをしていく。」というのは自明のことだろう、という思いがあったからである。逆に言えば、話し合っている彼らはそのことを自明だと思っていない。

「デザインミュージアムをデザインする」──この言葉は「言葉や制度の意味を恣意的に解釈変更してみよう」の言い換えになってはいないか?そう邪推してしまうのである。

 

最後になって勢い余って話がすごくずれてしまったが、この問題についてはのちにもう一度触れることになるはずだ。(つづく)

 

参考文献

「モダン・デザイン全史」海野弘、美術出版社、2002年

「世界のデザインミュージアム暮沢剛巳、大和書房、2014年