うにを掴む

掴まない

日本のデザインミュージアム構想③

前回から妙に枝葉末節にこだわりすぎているような気がしてきたこのブログだが、ここでようやくEテレ『デザインミュージアムをデザインする』(前半)を見た。

しょっぱなからまず嫌味を言いたいのが・笑、番組全体の「デザインってこういうもんでしょ」感あふれるビジュアルである。白地にゴシック体、それでなぜか字間は開きめでね。わかりますよ。「デザインあ」もそういう感じですものね。美大生もそういうこと、よくします。

デザイナーズマンション、デザイン家電…この世の人によって作られたものは多かれ少なかれ、そしてバッドだろうがグッドだろうが「デザイン」されたものであるはずなのに、実はそこには「デザインらしい」見た目のもの、という見えない基準線が存在する。そう、見た目の話──こういうとっかかりで話を始めると、いま、デザイン業界にいる人は肩をすくめるかもしれない。「デザインって見た目だけじゃないんだよ」と。

けれども、その論理には実は終わりがない。「デザインって見た目だけじゃない」、これは確かに当たっているかもしれないが、一方で使いづらく、機能も他に優れているものはいくつも見あたるが、見た目だけは良いもの──これはデザインではないのだろうか?もちろんそれもデザインである。「でもデザインって見た目のことでもある」これで議論が一巡した。結局これは循環し続けるだけの問答にすぎない。

私は当番組で取り上げられている、各ゲストと、彼らが選んだ「Design collection」は「「デザインらしい」見た目のもの、という見えない基準線」におもねったものに感じられた。同じ方向性を感じすぎてしまった、というふうに言い換えてもいい。だってゲストの人のオフィスや服装の雰囲気、本当に似過ぎていませんか・笑。いやこれは冗談だけれども、あながち論点としては外していないとも思う。つまりそれは各ゲストが悪いとかいうよりも、その人選に何か恣意的なものを感じてしまう、ということに尽きる。これは悪意ある目線だろうか。けれども、例えば亀倉雄策の対極には横尾忠則のような人もいたはずで、また、近代合理主義の対極には岡本太郎のような人もあったはずだ。(今やクール・ジャパンと桁上げされてしまったが)オタク文化、遡れば特撮文化、まんが文化の異形性は、その異形性にもかかわらず今や尽くせないほどの影響を現代の人間に与えてはいないか。そういう人たちの仕事、そういう事象がここではきれいに見過ごされてはいないだろうか。弥生的と縄文的という二分法を当てはめるとしたら、縄文的のほう、と言うべきか。そういうものは「デザインではないもの」として扱われているのでは?けれどもそれがデザインでない理由もどこにもないことにすぐ気づくはずだ。このような視座に立ったとき、おのずと「デザインミュージアムを〜」の世界観、デザイン観は相対化されて見えてくる。

デザインはシンプルで、わかりやすく、機能的で、整っていて、誰でも理解でき、美しく、使い勝手が良く、モノクロで、感じがよく、おもしろく、正直で、役に立ち、よくわかり、工夫が凝らされていて、ためになり…これらはすべてある種の神話であり、各々が政治的信条としてこうだと思うのはいいにしても、こうした面だけをとらえて「これがデザインだ」という考えを地固めしてしまうことは「「デザインらしい」見た目のもの、という見えない基準線」を何となく踏襲し、強化してしまうおこないに他ならない。デザインミュージアムをデザインする、の人選には、常にそうした偏りを感じる。けれども、自身の了見を常に相対化し続けることがたとえ議論としてまとまりを欠いたとしても、多様性ある豊かさにつながってゆくのではないか。そうして見回してみたとき、自分が中立的で、普通で、フラットだと思っていた表現手法ですら結局は「モード」の一傾向──偏ったものの見方に過ぎないことが見えてくる。何となく白地にゴシック体、それでなぜか字間は開きめのタイポグラフィーでやってる人。あなたのことですけど。