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21_21 DESIGN SIGHT「マル秘展」──オリンピック・エンブレムは燃えているか

新型コロナウイルスの影響で閉館を余儀なくされていた美術館やギャラリー施設だったが、今月に入ってちらほらと再開するところも増えてきた。そんななかで、6月1日より21_21 DESIGN SIGHTで開催されている『マル秘展 めったに見られないデザイナー達の原画』も事前予約の制限を設けた上で再開した。私がこの展示に足を運んだのはまだ1月のことだったが、たくさんの入場者でかなり会場はごった返していたので、この対応は無理もない。実際展覧会は盛況なようで、会期が今年9月にまで延長された。(入場制限を行った上でのこの延長は、予想来場数の多さを暗に示している)

出展者は日本デザインコミッティーのメンバー26人であり、展覧会企画はデザインエンジニアの田川欣哉氏である。企画内容は非常にシンプルで、各デザイナーの制作過程におけるラフ・スケッチ(”めったに見られないデザイナー達の原画“)を展示することによって、「日本の次世代にJAPAN DESIGNの遺伝子を伝え」、「次の世代の「つくる人たち」にインスピレーションの種をまく」ことなのだそうである。番組「デザインミュージアムをデザインする」の中でも田川氏はデザイナーの制作過程を残すことを非常に重視していることを語っていたが、この展示はそうした考えの実践といってよいだろう。そして取り急ぎ、この意見は正しい。特に大量生産物としての「もの」を収蔵する意義は──「デザイン」の性質からいっても──「作品単品」ではなく、ミュージアムであればその企図、背景資料などを含めて総合的に価値づけられるべきだからだ。

デザインの完成物と制作意図──この非常にありふれた二つの言葉から、しかし確実に私の中で連想されてくるのは2015年のオリンピック・エンブレム騒動である。今更詳しくは書かないが、ここで問題になったのもデザインのオリジナリティが表層(アピアランス)だけで「パクリ」と断定されてしまうこと、つまりそのバックグラウンドやコンセプトのオリジナリティ=制作意図があることを理解されないことにあった。このエンブレム問題は特にグラフィック・デザインの業界ではいまだに尾を引いていると感じさせられるし、まだ決して終わっていない問題でもある。この問題の根が深いのは、端的に一般人の無理解・無教養だけが原因なのではなく、ひいてはデザインというのは「そういうもの」であるという認識を戦後日本のデザイン界が温存し、これまで育ててきてしまったからに他ならない。一見してこの「マル秘展」は、このエンブレムをめぐる問題にもデザイナーの制作過程を見せるというアプローチによって明快に回答したかのように見える。しかし実際のところ、デザイナーの(なぜか大半が)手描きの原画を展示し、それを「マル秘展」と名付ける行為は、そもそもなぜそれがどうして「マル秘」としてブラックボックス扱いされるようになってしまったのかという大元の問いを看過・温存してしまっている。加えて、そうした問題意識が機能しないまま「マル秘」のものを「開帳」して一般に見せ(てあげ)る、という姿勢をとることは、ますます「クリエイティブ神話」──人とは一味違うセンスを持った人が考えていてなかなか常人には理解できないがそれがクリエイティブだ──を強化するだけなのではと疑ってしまう。

更に言えば、そもそも「原画」がどれほどデザイナーの「方法論・哲学・品質」を物語ってくれるのだろうか?無論、方法論という点で言えば、作業における意思決定プロセスの一端をそこに見ることができるかもしれない。けれども肝要なのは何をもとにそのアイデアがかたちとして描かれ、何をもとに取捨選択されたのかという、より根本的な考えの枠組みのほうではないか。あなたはどのような社会的関係を持ち、そのうちどのようなイメージや考えを引用しているか、何をアイデンティティとして選択しているか…各々の制作理念を知るには、究極的にはそうした点にまで遡り、語らなければ意味がない。「デザインはいろいろ考えられて作られていて、人によっていろいろなプロセスがあるんだなあ」では、結果的にその個人がなぜそのデザインをしたのかという意味が薄められ、ふんわりと「クリエイティブ神話」の供物に捧げられてしまう。

そういうマジメな展覧会はつまらない?その通り。お客さんもこんなには入らなかっただろう。全くその通り。けれども動員数や人気取りに終始した結果、ひたすら大衆迎合以外の路線がとれなくなった「デザイン」に未来はあるのだろうか。「マジメはつまらない」のではなく、もはやデザインはマジメで堅実にが「できなく」なってはいないか。