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シックス・センスとアーサー王伝説

シックス・センス》(1999)を見ました。

作品の性質上、話の筋に言及するのはどんな場合であれ憚られるので、一点だけ感想を。(とはいえ、未見の人はこれ以上読まない方がいいと思いますが。)

 

劇中に、少年コールが通う小学校で演劇の発表がある様子が描かれます。演目は《アーサー王伝説》。しかし、なぜアーサー王伝説なのか。

このシーンの意味を改めて考えてみます。劇中のラストに近いほうのシーンに限って言えば、まずみんなから変人扱いされてきたコールくんが主役=アーサーを演じる立場にあることから、ようやくクラスの中に居場所を得たことの証しとして描かれているということは言えるはずです。たとえその立場が現時点では先生にフックアップしてもらった仮初めのものだったとしても、今後、次第に彼がクラスの一員として馴染んでいくハッピー・エンドの予感のようなものを感じさせる象徴的なシーンです。また、彼が苦手としていたクラスメイトの子役もやっている男子生徒が脇役に格下げされてしまっているのは痛快というか、ちょっとしたユーモアでもあります。

 

けれども、これだけの内容を描きたいのなら、なにも演目はアーサー王伝説でなくても良かったはずです。逆に言えば、別にそれがアーサー王伝説であっても勿論いいわけですが、これほど強調して描かれているからには、何か絶対にアーサー王伝説でなくてはいけなかった、象徴的な意味が隠されているのではないか。そう仮定してみます。

 

アーサー王の「岩から剣を抜く」エピソードというのは、ものすごくざっくりと書くと、その行為に成功したことによって、青年アーサーの「王の資格」が認められる、というお話です。この場合の王の資格というのはその人自身の実際的な資質というより、血筋を指しています。

同じような構造をもった有名なお話として、《シンデレラ》のガラスの靴のエピソードが挙げられますね。誰も履くことのできなかったガラスの靴をシンデレラだけは履くことができた。そのことによって、その人が舞踏会で出会った運命のひとであることが証明されるのです。

注意しておかなければならないのは、ここでは、剣を抜くことができた人が王になる資格をもっているわけでも、ガラスの靴を履くことのできた女性が王子と結婚する資格をもっているわけでもないことです。そうではなくて、王の血筋を受け継いでいる人だけが剣を抜くことができる。王子と結婚する資格をもっている人だけが、ガラスの靴を履くことができるのです。

一見この二つは同じように思えるかもしれませんが、実は全く違います。つまり、「資格」自体はその時突然に与えられるわけではなく、既にその人が「固有のもの」としてもっているものであり、しかも他人には替えがたいものです。更に、それは努力や成長によって事後的に得られるものでもあり得ません。当人たちにとっては、血筋や足の形というのは不可避的なものであり、場合によっては「呪い」にすら近いのです。

けれども、逆に言えば「剣を抜く」ことで得られる祝福や承認はそれほど根本的な意味での、その人の存在の肯定にもなりえます。(さらに、これをアイデンティティの確立といった発達上の出来事に重ねて見るのは大袈裟すぎるでしょう。)

すごい勢いで書いてしまいますが、絞り込めば、「選ばれし者の祝福」──これが、「剣を抜く」エピソードに託されたテーマだと言えるでしょう。

 

シックス・センス》に読み替えれば、「剣を抜く」シーンのテーマ性がコールに重ね合わされていることがわかります。『死者が見える』という天与の異能力に自身が苦しめられるばかりだった少年は、その能力のつかいみちを覚えることで、ひとまず心の安定を取り戻します。ゴーストと会話することも今となってはありふれた出来事のようです。また、演劇が終わったあと、彼はついに母親に秘密にしてきた自身の能力について打ち明け、母親はそれを受け止めます。このようにして、「選ばれしもの」である彼と彼の能力は「祝福」され、自他共に承認されるのです。